2020年1月30日に放送される「アンビリバボー」で小川岟一(よういち)さんについて特集されます。
小川よういちさんは、第二次世界大戦後ロシアのサハリン(旧樺太)に残留した日本人の帰国に大きく貢献。
終戦から40年後に訪れたサハリンで日本人女性との出会いが、小川よういちさんを大きく突き動かしたようです。
サハリン残留日本人が誕生した理由。
そして、残留日本人の帰国に大きく貢献した小川よういちさんの行動について紹介していきます。
【アンビリバボー】サハリン(樺太)残留日本人が誕生した理由!
北海道稚内市の北に位置するサハリン。
1905年に日露戦争で日本が勝利し、ポーツマス条約により北緯50度より南側が日本領となります。
そこは「樺太(からふと)」と呼ばれ、約40万人の日本人が暮らしていました。
戦前は樺太から宗谷海峡を通って稚内を結ぶ航路があり彼らの生活を支えていました。
しかし、終戦直前にソ連軍が北緯50度より境界を超えて樺太に侵攻。
1945年8月15日の終戦宣言後も樺太ではソ連軍による奇襲や侵攻が行われ占領される事に。
奇襲直後から日本人の撤退は始まり政府は船舶を出して日本人の引き揚げを開始。
しかし、宗谷海峡を運航中にロシアの潜水艦に攻撃されて沈没したり、また密航が行われたため引き揚げは一時中止されます。
その後、アメリカとソ連の協議により1946年から残留日本人が引き揚げが開始。
1949年までに樺太や北海道の東にある千島列島から約30万人の日本人が引き揚げられました。
約2,000人が残留する事に!
そして、1949年7月に樺太からの日本人の引き揚げは一旦終了する事になります。
ただ、この時点で樺太には約2,000人以上の日本人が残留していました。
樺太になお2356名の日本人が残留しており、その内ソ連人、朝鮮人の妻となった者が約1000名居り、他は服役者約500名と、ソ連諸機関に留用されているもの及び残留希望者である。
2,000人以上に日本人が残留した理由については様々な事情があります。
当時ソ連が困難な状況にあり労働者を必要としており、専門職に就いていた技術者や抑留者などは引き揚げの対象外に。
また、サハリンには労働のために朝鮮半島出身の人々が多くいました。
サハリンには日本人男性が少なく、また一部ロシア兵の暴行から逃れるために朝鮮人男性と結婚する日本人女性は少なくありませんでした。
中には相互利益やお互いに惹かれあった結婚もあったようです。
ただ、当時の引き揚げ船には朝鮮人が乗る事は出来なかったため、朝鮮人と婚姻関係にあった多くの日本人女性と子供がサハリンに残留する事になりました。
その後も徐々に引き揚げは行われる
また、1956年の日ソ共同宣言によって1957~59年まで再び引き揚げが行われます。
終戦直後に帰国出来なかった朝鮮人と結婚した日本人女性約770人とその家族を含む1,500人が集団帰国。
しかし、日本政府からの公式な引き揚げはこれで終了する事に。
政府は残留した日本人について「個人の意志で残留した」と認識。
それでも残留日本人の帰国は行われ、1965年からは「サハリン墓参」が開始。
既に日本に帰国したかつてサハリンに住んでいた日本人が訪れる事に。
ただ、サハリン墓参ではソ連警察の厳しい監視下にあったため観光目的での訪問は禁止されたそうです。
そして、1986年にゴルバチョフ書記長がソ連の政治体制の改革運動を目的とした「ペレストロイカ」を実施。
政策により1988年にサハリンの外国人立ち入り禁止区域が解除される事になります。
小川岟一(おがわよういち)さんが残留日本人の帰国に大きく貢献!厚生省が隠蔽していた

(画像引用:http://sakhalin-kyoukai.com/topics/index.html)
サハリンの外国人立ち入り禁止が解除された事で小川よういちさんも1988年にサハリンを訪れる事に。
実は小川よういちさんはサハリンの出身。
故郷でもあり交流目的で訪れたサハリンで日本人女性と運命的な出会いをされます。
「私は、日本人です」
’88年、日本からの墓参の一員としてサハリンを訪れていた樺太生まれの小川よういちさん(83)は、ユジノサハリンスクの町中で突然1人の女性から話しかけられ、歩みを止めた。
「本当ですか。やはり日本人はいたんですね」
このとき60代半ばだったという、サハリン残留法人1世の野呂静江さん(92)は懸命に訴え続けた。
「ずっと日本人であることを隠して、ここサハリンで生きてきました。
私たちが帰国できるよう、日本政府に頼んでもらませんか」
このように小川よういちさんは野呂静江さんと出会った事で、サハリンにいた残留日本人の帰国に向けて活動を始めます。
小川よういちさんは帰国後、 東京で「樺太同胞一時帰国促進の会」を発足。
当時政府はサハリン残留日本人はないと認識しており、小川よういちさんの訴えに全く目を向けなかったそうです。
それでも、小川よういちさんたちは厚生大臣や外務大臣に向けて嘆願書を書き続けました。
その後、日本にいる野呂静江さんの子供と会うことに。
子供は「母親は自分たちを見捨てた」と野呂静江さんに対して否定的な意見を述べたそうです。
そんな中で、後に残留日本人帰国に協力してくれた五十嵐広三議員からあるものを手に入れます。
それは厚生省が密かに作成した未帰還者名簿でした。
名簿には120人近く日本人が帰還を希望していた事が書かれていたのです。
厚生省は都合の悪い事実を隠蔽していたわけです。
そして、小川よういちさんの説得により政府はサハリンに残留日本人がいる事を認定。
ただ、政府は帰国にかかる旅費は負担するものの滞在費については支給しませんでした。
それでも樺太同胞一時帰国促進の会はサハリン第一次帰国者12人の滞在費を寄せ集めたのです。
野呂静江さんたちの日本帰国が叶う!
同時に野呂静江さんたちも同胞女性たちに呼びかけ、置き去りにされた日本人の名簿作りを始めていました。
そして、1990年5月ついに12人の残留法人の一時帰国が実現。
野呂静江さんは帰国後、息子と面会。夜通し語り明かしあったそうです。
小川よういちさんの努力もあり、12人全員が肉親と面会する事が出来たそうです。
#アンビリバボー よかった。本当によかった。 pic.twitter.com/bTBLtMJ92F
— darrellmay(ダレルメイ) (@architecturemay) January 30, 2020
その後も1992年までに371名が一時帰国。
現在まで約3,509名が一時帰国し、305人が永住帰国したようです。
野呂静江さんも1997年三女の一家とともに永住帰国する事に。
このとき一緒に帰国した孫の長尾洋子さんは、永住帰国者たちから“幸せの象徴”と呼ばれるサハリン残留3世で、今も日本で生活しているそうです。
野呂静江さんが帰国しなかった理由は?
野呂静江さんは40年間サハリンに残留したのはロシア人の夫や子供がいた事が大きな理由だったようです。
はじめて日本人として名乗り出た野呂さんは’23年2月、真岡で生まれた。
10人きょうだいの長女で、17歳のとき漁船の機関士だった夫と結婚する。
「父は大工でしたが病弱だったので、下の9人の弟や妹の面倒を見るために、私が裕福な人と結婚したんです」
ところが、長男をもうけた直後の’44年、夫は兵役にいったまま行方不明に。
戦後は’47年に建設業のロシア人の夫と再婚。
「私はミンクの飼育場で働いて家計を支えました」。
幼い弟妹を養うための2度めの結婚だったが、その弟妹と両親たちは、野呂さんを1人置いて日本へ引き上げていく。
しかし、4人の子の母となっていた彼女は、帰国を断念するしかなかった。
また、消息不明になったと思われた夫から手紙が届いた事で衝撃を受け野呂静江さん。
夫は引き揚げにより日本に帰国していたのです。
ただ、野呂静江さんはすでにロシア人と結婚して子供もいたため残留を選択。
その後、ロシア人の夫が亡くなった事で日本に帰国したい気持ちが強くなったそうです。
野呂静江さんのように帰国を願った人も多くいましたが、中にはサハリンに残留する事を自ら望んだ日本人女性もいました。
- 日本やソ連から出国の許可が出なかった
- 自身や夫がソ連・北朝鮮の国籍を取得したため
- 夫が朝鮮人で韓国に帰国できないため自身も帰らないと決断したため
- 引揚げや戦争で別れた日本人の夫がいるが、朝鮮人との夫やその間に出来た子どもがいるため
- 日本の親戚の負担になることを避けるため
- 子どもに反対されるから
このように各々が複雑な事情を抱えていためサハリンに残留する事に。
世間一般的にはサハリンに❝残された❞という印象が強いわけですが、中にはサハリンに❝残る❞事を選択した女性もいたようです。
また、終戦直後にソ連が冷戦状態に入った事も残留を長引かせる原因になったと言われています。
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